酔頭禿筆日記 sioux_pu’s diary

現像ソフトも編集ソフトもない撮ってだしです。というのもどうかな、と最近思っています。

ネバーランド

NHKラジオ第2放送の、カルチャーラジオ「大人のためのイギリス児童文学」の、「永遠なる子供 ジェームズ・マシュー・バリ『ピーター・パン』」を聴いたのを機会に、ジョニー・デップ主演の「ネバーランド(Finding Never Land)」のDVDを見直してみる。

ネバーランド」初見では、自らの家庭も社会の評価は省みず、且つ思い込んだら躊躇なく行動してしまう、文人的なキャラクターのようで、バリ卿にはあまり感情移入はできなかった。それよりもセットやも衣裳、音楽の良さにばかり気を取られてしまった。
だが、このラジオでの講義によれば、『ピーターパン』は、いろいろと複雑な背景によって形成された物語のようだ。

まず、母親との関係。
次兄を溺愛し、他の子供たちは目に入らない母親、不慮の死を遂げた次兄の代わりを演ずるジェームズ。

そして、大人になる過程で、社会との不適合に悩むジェームズ。
「18歳になるとエディンバラ大学に入学するが、身長も心の成長も他の学生たちに追いつけなかった」とあるので、今でいう適応障害のようなところがあったのかもしれない。
ケンジントン公園での散歩で知り合った三人の子どもたちと、その母シルヴィアとの出会い。
シルヴィアの夫アーサーについては、映画では子供たちとバリ卿が知り合った時にはすでに亡くなっていたという設定だが、実際にはまだ存命で、ガンと戦っていた。アーサーが亡くなった後、バリ卿は子どもたちの面倒を見るために離婚したようだ。

子供たちの友人であり、保護者であり、支援者でもある、最も身近な存在でありながら、彼らの肉親・父とはなりえない。また、シルヴィアの夫として受け入れられない、そのアンヴィバレントな状況がバリ卿を悩ませていたのだろう。そして、子供たちは日々成長していき、社会的な存在になっていく。

『ピーターパン』に登場する、正反対の二人の大人。
子供たちが消えた責任を感じ、犬小屋に入って出て来なくなる父親。
名門パブリックスクール卒、礼儀正しく、花と音楽を愛する、しかし悪役フック船長。
この二人を融合したキャラクターになることができれば、すべてがうまくいくはずだ、とバリ卿は考えたのではないだろうか。

なってしまった自分と、なれなかった自分の姿をこの二つのキャラクターに投影したのではないか、と小峰先生は分析している。
子供たちの父親とフック船長は、同じ役者が二役を演じるという設定だったそうなので、作家としては自らを客観的に見、そこに物語としての逆説的な面白さをはめ込んだと。

ジョニー・デップが、なぜこの地味な映画の地味な主役を演じたのか疑問だったが、この放送を聴いて多少解ったように思う。
デップは、バリ卿の存在そのものにかかわる苦悩(なんだそれ)、アンヴィバレントな苦悩に魅力を感じ、演じたのではないか。