強制労働に従事させられたエディは、容赦なく廃棄される収容者を見て、「お前」という概念を得る。
お前、は別に女の事じゃない。アディのことでも高い口紅の子のことでもない。マックスの婆さんを死なせベーレンス兄弟をUボートさせたもの。アディをラーフェンスブリュック送りにし、僕をここにぶち込んだもの。あの溝を死んでいく人間に掘らせているもの。お前のことだけを考える。出ても入っても、娑婆でもムショでも、アルスター・パヴィヨンのテラスで踊っていてもベルゲドルフにぶち込まれていても、ぼくにはわかる、ぼくがいるのは牢獄だ。月の下でも太陽の下でも、兵隊になるなんてあり得ない。模範囚になって個室に蓄音機を持ち込んでも、雑居房で雑魚寝してても、囚人を順に殺していく狂った牢獄を祖国とか呼んで身を捧げる奴なんかいるか?お前、お前、お前から逃れるまで、ぼくはお前のことを考える。夜も昼も。 (文庫版229ページ)
この部分を読むと、「エディは敵をきちんと捕捉したんだ、エディがこれからナチス政権と正面切って戦うというマニフェストだ」って思わせる(ぼくは思った)のだけれど、これはじつは作者の仕組んだ読者に対する罠じゃないのかね? 罠といって大げさすぎるなら、けっこう意地の悪いひっかけ問題なんじゃない、と、ぼかぁ思うんだよね。
それはさておき、エディは断固として志願しなかったのだが、
「強制労働に耐えきれず武装SSに志願してしまい、素行不良がもとでアインザッツグルッペンに配属されてしまった少年」
の小説があったら、どんなものになるだろう。アインザッツグルッペン部隊員の内面を描こうとしたら書き手が病んでしまうかもしれない。
そもそも、強制収容所を作ったのには、現地で銃殺させているとおかしくなってしまう隊員が出るので、トラックの荷台でのガス殺にしたんだけどやっぱりおかしくなちゃうから、収容所に送って働けないものは処分、働けるものはこき使って死なせる、という流れもあったという覚えがあるから、尋常ではないうえにことに尋常ではないことをしていたのだろう。
強制労働で足を痛め、従軍不適格となって鑑別所から帰還したエディ。
この先「スウィングボーイズたちのナチス政権への反抗が始まるんだよね」などと思いつつ読みすすめていったのだが、予測は微妙にずらされていく。
帰って来たばかりのエディは、父親の工場で働くノイエンガンメから派遣された収容者を見る。
---(前略)ぼやっと突っ立ていた警備兵が、目の前をおぼつかない足取りで通った収容者に難癖を付けて殴り始める。また何かがぼくを捕まえかけるが、どうにか押しやる。ほら、収容者が全員、手を止めただろ。こっちは人数と時間に金払ってんだよ、いらんことすんな、屑。 (文庫版233ページ )
「金払ってんだよ」とエディは考えるのだが、これは逆説的に考えると「金払わなくても良い」のなら収容者の扱いに「関与する筋合いではない」から好きに扱っても構わない、ということになるのではないか。
金を払っていなければ、無償で派遣されている労働力だったら、親衛隊の警備兵が気まぐれに、働いている収容者の一人を殴ってもいいし、それを見たほかの派遣されている収容者が手を止めてもいいのか?
父の工場に勤めだしたエディは、工場に派遣されてくる収容者の待遇を改善するためにいろいろと手を回す。単行本で読んだ際には、それは「人道的な配慮」によるものでエディっていいやつだな、と読んでしまったのだが(単純)、どうもこれに人道は全く関係なくて(すこしはあるかもしれない)経済的な理由による行動だ。「人道的な動機による行動」なんて人間はそうそうしないもんだよ、という作者の声が聞こえるようだ。佐藤先生にまたしても騙された感ある。
中盤のクライマックスであるハンブルク大空襲を契機として、エディの現実への対応の変化が徐々に巧妙に提示されていく。
(たぶんその3につづく)