酔頭禿筆日記 sioux_pu’s diary

現像ソフトも編集ソフトもない撮ってだしです。というのもどうかな、と最近思っています。

佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』を文庫版で再読 その3(ようやく終われました)

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  本作中盤のクライマックス、ハンブルク大空襲。(雑誌「アラザル」vol.10掲載の佐藤亜紀さんインタビューによると、第二次大戦中ドイツへの爆撃で発生した瓦礫の、約1/10の量がハンブルクから出たそうな。)その描写はすさまじいが、空襲はハンブルクを徹底して破壊するとともに、なにより、エディを決定的に変質させてしまう。

 死の都、とマックスが言ったもの     そのものではないとしても、ごく近い何かが目の前に現れる。確かに何かが死んだのを、ぼくは感じる。ハンブルクはもうぼくの知っていた町ではない。それどころか、ぼくの知っていた僕も死んでいる。これは誰か別の人間か―でなければ死人のぼくだ。  (文庫版296ページ)

 

 叔父も来ていた。親父とお袋が死んだことを告げても、さしたる反応はなかった。

「そうか、うちは女房と娘が死んだ」

 ぼくは叔父がおかしくなったんではないかと思ったが、それを言うなら自分もいい勝負だったので黙っていた。それよりも、叔父には仕事があった―死体を防空壕から引っ張り出すのだ。ともかくそのことしか、叔父は考えていなかった。でも一人ではやる気になれず、ただうろうろしていたようだった。大体、潰れた屋根が半分のし掛かった第一防空壕はまだ熱を持っていて、扉を開けることさえできずにいた。お前も手伝え、と言われた。わかっているだろうな、お前の工場だからな。  (文庫版300ページ)(太字は酔禿)

 

 「死人」のエディはもうかつてのエディではなく、ゾンビだ。ゾンビが、「戦災孤児でベアリング製造工場の息子、かつナチスをたらしこむジゴロ」を演じる。ハンブルク大管区指導者カール・カウフマン、国家元帥ヘルマン・ゲーリング、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスといったお歴々の前で。

 ところで、カール・カウフマンてのはちょっと変わった経歴ですよね。ナチス左派のシュトラッサー兄弟などと近く、1929年にハンブルク大管区指導者になるものの、1930年にいちどは失脚。ところが1933年にしれっと復活して再度ハンブルク大管区指導者に就任したのち1941年には親衛隊中将に任命される。大管区指導者の座にとどまったまま終戦を迎える。戦後は戦犯として問われることもなくハンブルクで実業家として活動した、とウィキペディアにはある。ナチスの政治家だったのが、ハンブルクの財界に丸め込まれて市の利益代表になってしまったのではないか、などと妄想してみる。

 

 何もかもが転げ落ちてる、ってあの話はどうなったのさ、とぼくは叔父に訊く。

「転げ落ちてるさ」と叔父は答える。「だからこうしている。お前を兵隊なんかにやってる暇はないぞ。やらなければならないことが山ほどある」  (文庫版309ページ) 

 ---叔父は更に続けた。ぼくも誰より立派なナチ     ただし本気のやつではなく、十分わかった上で付き合ってやってるナチ、になる必要がある。モーリンゲンとかそういう贅沢はもう終わったんだ、と叔父は言った。  (文庫版310ページ)

 

  こうしてエディは、かつて「お前」と呼んだ相手とつるんでいく。そうして、「お前」に対する意識と行動との乖離はひろがっていき、その溝を埋めるためにペルヴィチンをぼりぼり齧る。ペルヴィチンは電撃戦ガンガンいこうぜっ、てときにはこうかはばつぐんだ、らしいんだけれど、塹壕戦や市街戦なんかではあまり効かないんだとか。

 

 ---ドイツの飛行機はどんどん落ちる。戦車は擱座し、軍艦は沈み、ケルン・フォードの軍用トラックはウクライナポーランドの野っ原に、腹を曝して死んでいる虫みたいに転がる。これ全て、Voss GmbHの稼ぎの種だ。生き残ってる?まだ動いてる?整備の資材は足りてるか?それもまた稼ぎの種だ。国の金で、工場は地面から生えて来る。---  (文庫版321ページ)

 

 ドイツ国民とナチスの「共犯関係」を明らかにするのには、主人公はこのエディでなければならなかったのだ。

 『スウィングしなけりゃ意味がない』の終りはこんなふうだ。

 

---明日、イギリス軍がハンブルクに入る。それでみんな解放される。(中略)生き残りレースの始まりだ。叔父貴に言って、イギリス軍の偉いさんと接触する段取りを付けさせなきゃ。ベーレンス兄弟を誘おう。潜り込むだけでいける筈だ。

 解放。なんて美しい言葉だ。   (文庫版371ページ)

 

 エディ、きみさ、連合軍相手にもジゴロやんの?