酔頭禿筆日記 sioux_pu’s diary

現像ソフトも編集ソフトもない撮ってだしです。というのもどうかな、と最近思っています。

佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』『黄金列車』内のある語に附されたルビについて

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 WeltaのWeltini。スプリングカメラとはいえ、クセノン5cmf2付きでシャッタースピードが1/500まであって距離計内蔵というスペックで、1937年から1938年に製造されたものなのだが、出所をさかのぼっていくと没収ぼっしゅ品の放出だった、ということもあるのだろうか。

 3日から今日まで4連休だったのだが、まいにち酔っぱらっているうちに終わってしまう。最終日には洗濯やら散歩やらをしようと思っていたのだが、雨だ。このままだと本当に虚無の4日間になってしまうので、前から気になっている所を、ざっくりまとめたい。
 標記の件、まずは『スウィングしなけりゃ意味がない』より、ベーレンス兄弟の主催?する闇オークションの場面。

「どこからあんなに出るんだ」とぼくは訊く。
「主にユダヤ人の没収ぼっしゅ財産だ」ぼくは思わずエリーの顔を見るが、彼は平気らしい。淡々たるものだ。理由はすぐわかる。「没収ぼっしゅ品倉庫から出て来る。横流しというか盗みというか、そういうルートだ。すべての倉庫は底に穴が開いていて、水が漏れるようにちょろちょろ漏れる」   (文庫版254ページ)

大事なことなので2度言いました。

 『黄金列車』ではざっと探した限りなので見落としがあるかもしれないが、5か所。
  と、没収ぼっしゅ財産処理手順変更の濁流が彼を押し流した。」(8ページ)
「しかも、没収ぼっしゅ品からくすねてひと財産作ったって、もっぱらの噂だ」(65ページ)
「積んでいるのがユダヤ人の没収ぼっしゅ財産だと知ったら、こいつらも態度を変える。」(191ページ)
ユダヤ人からの没収ぼっしゅ財産です」(237ページ)
「省がユダヤ人からの没収ぼっしゅ財産の管理に乗り気だ、という噂はすでにあったからだ。」(318ページ)
 これだけ繰り返してルビを振っているのは「お前ら、ぼっしゅだぞ、ぼっしゅうって読むなよ!」ってことだ。

 なのでとにかく「没収」の意味を調べるために、 わが家にある『広辞苑第二版補訂版』 昭和52年10月20日発行の第二刷を引いてみる。
 この広辞苑は、今をさかのぼることじつに42年前、ぼくが高校に入学するにあたり、推奨図書として高校から購入を勧められたものである。佐藤亜紀さんもぼくと同年のはずなので、高校入学の際、同版同刷を購入されたかもしれない。然し佐藤家であれば、もともと自宅に広辞苑を備えていてもおかしくはない。ぼくの実家が所有する国語辞典はいまは亡き『広辞林』でしたので「苑派」「林派」のうちの「林派」だったわけですな。日本画でも描きそうだ。それゆえ、谷島屋書店本店で教科書やら各種参考書などと一緒に本辞典を購入したのだった。重かった。谷島屋本店で佐藤哲也さんと二アミスした可能性はゼロではなかろう。(浜松生まれではあるものの、育ったのは東京のようである。)しかし2020年に現役で使っているとは、それちょっとどうなのか。
 100均で買った老眼鏡をかけて、よっこいしょういちっと引いてみると
①とりあげること。②〔法〕イ 刑法上の付加刑。犯人所有の犯罪に関連する財物の所有権を剥奪して国有に移す刑。ロ 行政法上、或る物件の所持が行政の目的を害する場合に、その物件を無償で取り上げる処置。とくに没取と称し、刑法上の没収と区別することがある。→もっしゅう ※「イ」と「ロ」は丸囲い付き
とあります。語の意味はいまとほぼ変わらないようですが、現代では、「ロ」は「イ」との区別のために「没取ぼっとり」を使うことが多いようです。

 現代作家中、佐藤亜紀さんの著作は、漢字の使用率が高いほうではないだろうか。かつて「かなにひらくと情報量が減る」と書いているのを読んだ記憶がある。で、作中のどの漢字にルビを振るかを決めるのは、それぞれの出版社の編集方針に因るのではないか。角川書店はわりと多めにルビを振るように思える(あくまで印象ですが)。
 で「没収」である。これを「ぼっしゅう」と読めないひとは多くはいまい。だからこれは、作者が意図して付けたルビである。先にも書いたように「お前ら、ぼっしゅだぞ、ぼっしゅうって読むなよ!」なのだ。これはなぜか。
 ユダヤ人の所有している「財物の所有権を剥奪して国家に移す」ことがナチスドイツ並びにその傀儡国家、占領地などで行われた。(占領地では地元民にユダヤ人を追い出させて、そのあと財産を私的に略奪することを許す、というようなことも多かったようだがとりあえず置いといて。)『スウィングしなけりゃ意味がない』ではまだ脇役だが、『黄金列車』では、収奪された財産そのものが作品の主役といってもいい。この行為と財物を「ぼっしゅう」「ぼっしゅうざいさん」と読んでしまうと、②-イにあたり、刑として正当におこなわれた事と物である、と読むことが可能になってしまうからではないか、ナチスを無理やり正当化する読みが可能になりかねないからではないか?

 無言で、アヴァルは鞄からサラミを一本出す。それから銀時計を三個。駅長は凍り付く。
「どうぞ、お取り下さい」
 駅長はうめく。いやこれは、と言って言葉を濁すが、酒瓶は手元において放さない。
「遠慮なさることはありませんよ。出所は同じです。返還を要求される可能性はありません。全て、合法的なハンガリー王国の国有財産です」アヴァルは柔らかく微笑む。「ブダペシュトの酒類卸売り商の倉庫から没収したものです。高級なレストランやホテルに卸していたところで、なかなか羽振りは良かったようです」共犯者のように笑い掛ける。「積荷の一部です」

誰もそんなこと思ってねぇけどな。ぼっしゅうって読むなよ。