酔頭禿筆日記 sioux_pu’s diary

現像ソフトも編集ソフトもない撮ってだしです。というのもどうかな、と最近思っています。

SEM Kim & フジ記録用100

6月は気管支炎にかかってほぼ外出できなかった、わりと調子が良くなってきたので撮影に出かけたのだけれど、7月ですからね、かるい熱中症になる。

SEM KimのCrossレンズはアンジェニュー製らしいのだけれど、ハロがすごい。ネガフィルムでも若干アンダーめに撮ったほうが良いかも。

近・中距離でポートレートなどを撮影すると甘い描写が活きるだろうとおもう。

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本にあたったはなし

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RE Auto-Topcor 1:1.8 f=5.8cm α7

REオートトプコールはいいよ。f1.8のほうなら安いし。

 先日6月6日といえば当然6×6の日で、たまたまマンションの配水管点検立ち合いの日でもあったので有給休暇を取得したのだった。

 点検も無事終わってどのカメラを持ち出そうかと考えようとしたのだけれど、まったく考えが纏まらない。それどころか、「わざわざ金かけてクソ写真を量産してもしょうがねぇだろ」という謎のネガティブ思考まっとうな意見が湧いてくる。

 おまけに翌日会社を休む口実ばかり考えている。ひょっとしてメンタルダメなシーズンが始まったかも、などと思い、外出はあきらめて部屋で過ごすことにした。

 ヘニング・マンケルの『イタリアンシューズ』に、社会になじめない移民の子どもたちを預かる女性が登場していた。先月はそのへんつながりで同じスウェーデンのミステリ『地下道の少女』(アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム ハヤカワミステリ文庫)を読んだ。地下道の子どもといえば、ブカレストの「チャウシェスクの子供たち」を連想するが、舞台はストックホルムだし、と思いきや「チャウシェスクの子供たち」も主要な事件二つのうちのひとつの被害者として登場する。

 内容は、福祉国家スウェーデンには存在しないとされている地下道に居住するホームレスを扱ったもので、現在を描く章と、事件発生時点である53時間前から時間を追って捜査を描く章が交互に置かれ、ほぼほぼ一気に読まされたのだけれど、

(以下若干ネタバレ)

作品の最後にはかなりのどんでん返しが用意されており、しかも作中の事件には一切解決が与えられず、登場人物たちの苦悩だけが読者に残され、それでも作品は完全に完結しているという「何を言っているのか わからねーと思うが」控えめに言って傑作だった。ただ、まったく救いのない作であるぶん、精神にまあまあダメージが残っているということにこのとき気付けばよかったのだが。

 並行して読んでいたのが『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』(レオ・ペルッツ ちくま文庫)。ペルッツは最初に読んだのが『ボリバル侯爵』なので、シュールリアリスムとか幻想小説的な印象を持っていたのだが、こちらはロシア内戦下での追跡劇で、ロシア内戦はネットを漁ってもあまり詳しい記事が見つからないのでその面から読んでも面白かった。その辺の感想はまたべつに書いてみたいけれどもさていかに。結末の主人公ヴィトーリンのこころには安息があるので、救いがあるといえばある作品なのだが、読者に残るのは安息よりも切なさだろう。そういや『アンチクリストの誕生』ではチェーカーと表記されていたのに、こちらではチェカと変更されているのはなぜか。うちにはインダスター22とオリオン15とジュピター12があるがFEDはない。

 追跡劇つながりで、いま続けて読んでいるのが『カチアートを追跡して』(ティム・オブライエン 新潮文庫)。品切れなのか絶版なのか不明だが、密林のマケプレでたまたま1,000円で出ていたので入手。

 これはやめとけばよかった。20年ほど前にティム・オブライエンをまとめて読んだとき、この作がいちばん面白かった記憶があったのだけれど、30代と50代終わりでは精神の強度がちがうのだった。いくらファンタジー味があるといっても、上記2作を読んだところに、ベトナム戦争を舞台にした作を読むんじゃなかった。

 

 ひどい時期だった。八月の初めにはベン・ナイストロムがいきなりひざを折って泣き出し始めた。いっこうに泣き止まなかった。径の上に殆ど仰向きになってしまい、首を振って泣いていた。全身から力が抜けているようだった。ドクが手を貸してようやく立ち上がらせたものの、泣き声は止まなかった。

 その後、ますます殺気を孕むようになってきた午後のバスケットボールの後で、スティンク・ハリスとバーニー・リンが本気の喧嘩を始めた。 (179ページ) 

  このあとの喧嘩の描写がひどくて、気の弱いおじいちゃんには刺激が強すぎたのね。

 

 そんなわけで、おなかが食べ物にあたるように、気持ちが本にあたったようになっていた。

 きのう7日は6×7の日だったけれども、67のカメラは持っていないのでカメラではなく川上弘美先生(年長者は先生)の『ゆっくりさよならをとなえる』を持って出勤し、帰宅の地下鉄でリハビリをした。おなじ車両にどうもコンサート帰りらしい2人組のお姉さまが大きな声でたいへん楽しそうに話をされておられた。とんかつ屋さんの話題が出ていたが、店の名前は失念。やや回復感あり。

 スーパーでそら豆の塩ゆでと、キムチ鍋にしようと加熱用のむきホタテ、それから金宮25度に割り用のトマトジュースを買って帰った。

 とうぜん今日は二日酔いで頭が痛いけれども、洗濯をしながら堀江敏之(年下は呼び捨て)さんの『一階でも二階でもない夜』をつまみ読みしたりしたのでした。

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SUPER WIDE-HELIAR 15mm F4.5 α7

SWHはVer.1です。 

超広角15mmがじつに手強かった件

 昨年暮れに黒色中国さんの

世界最高の「フルサイズミラーレスカメラ」を買いました! - 黒色中国BLOG

を読んで、ベッサL良さそうだなぁと思っていたところ、年明けにヤフオクでほとんど使用感のない、銀のベッサL+スーパーワイドヘリアー15mm+ケース(3点とも元箱付き)が出品されていてためしにスタート価格で入札してみたらそのまま競合なしで落札してしまった。

 なかなか使いどころが見つからず持ち出せなかったのだけれども、ようやくこの連休で試写して見ました。ものの、超広角15mmを舐めていましたね、難しいかったです。

 おまけにフィルムのローディングに失敗して、一部コマかぶりが発生という惨憺たる結果となりました。

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西本願寺名古屋別院

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日置神社

 広い、ひろすぎる...

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東本願寺名古屋別院

 上下の写真を比較すると、すこしでもあおったらダメだってことですね。画面中央に地平線を置けば、歪まないレンズだということか。

 西別院と比較して東別院が広大なのは、名古屋は尾張徳川家の所領だったからなんでしょうか。

 以上は4/28に撮ったもの、以下5/4に新栄から鶴舞あたり。

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 縦位置だとほとんど頭の上が撮れる。

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 ゆびかなんかはいってるし

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 旧車のレストアをしているくるまやさんらしい。

 露出計の精度はあっているようだ(慰)。

『イタリアン・シューズ』ヘニング・マンケル 柳沢由美子:訳 東京創元社

 過去の医療事故から外科医を引退し、祖父から譲り受けた島のサマーハウスにこもって12年となる主人公は66歳。そこに37年前に捨てた恋人が訪れ、かつての約束を果たせと迫る。

 刑事ヴァランダーシリーズの著者、ヘニング・マンケルの新刊なのでミステリのノン・シリーズかと思ったのだがそうではなくて恋愛小説だった。

 主人公の内省的な描写が中心だった序盤を経て、中盤から一気に展開する構成はさすがミステリ畑出身だと感じいった。

 雪に閉ざされた湖を訪れてアクシデントに見舞われる部分は、村上春樹の影響があるのでは?主人公の不安や恐れを自然や風土に仮託してあらわし、そこに飲み込まれかけるものの生還する、というのは村上春樹の得意な表現じゃなかったっけ、と思ったけれども、なにせ村上作品を読まなくなって20数年経つので勘違いかもしれない。

 北欧人の心性なのか、ヘニング・マンケル独特の表現なのかはわからないが、感情表現が濃厚で、人間関係が深く濃い。そのぶん怒りは激しく喜びは大きい。作中の人物が唐突に怒り出すところは、ちょっと理解しがたい。またその怒りかたが尋常ではない。それがスウェーデン人と日本人の違いなのか、それとも人やものごとについて怒ってもなにも変わらないので怒ることをほとんどやめてしまった、あきらめてしまったじぶんの問題なのかはよくわからない。

 決定的に見える衝突があっても、関係を再構築する糸口があるのはヨーロッパ的なんだろうか。

 この辺りはヴァランダーシリーズの親子関係でも感じたところである。 

 

過去からの突然の訪問はない

残された孤島などはない 住宅ローンがある

いかなる失策をしても退職はできない 謝罪して勤める

 

 還暦近くなって「ぼく」なんて言ってるほうがどうかと思うよね。

 

『カタロニア賛歌』新城哲夫訳 ハヤカワ文庫NV を読みなおしたこと

 今年の初めは、距離計に連動しないレンズや距離計がダメになっているカメラをちょいちょい目測で使ってピンボケ写真を量産したもので、距離計持っているんだから不精すんなよな、なんて思いました。

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 たしかジョージ・オーウェルの『カタロニア賛歌』に距離計(軍装品だから測距儀かな)が出てくることを思い出して本棚からひっぱりだして再読しました。

 

--- はるか向こうの端には小さな壕があり 、屋根が地上に出ていて小窓があった。窓から期中電灯を照らしてみたところ、われわれは思わずどっと歓声を上げた。革ケースに入った長さ一メートルあまり、直径十五センチの円筒形のものが壁に立てかけてあるではないか、こいつはどうやら機関銃の銃身だぞ。われわれはひと回りして戸口から駆けこんだ。革ケースに入ったのは機関銃ではなく、兵器の不足をかこつわが軍にとって機関銃よりずっと貴重なものだ。図抜けて大きい眼鏡照準器で、少なくとも六、七十倍の倍率があり、折畳式の三脚までついていた。そのような眼鏡照準器はわが軍のこちら側の戦線にはなかったし、喉から手が出るほどほしかった。(120ページ)

 

 「ドイツ軍 測距儀」で検索すると、 1940年代ドイツ軍の測距儀の情報が見つかる、レストアする人までいるのには感心する。スペイン内戦は1936~9年なので、オーウェルが見つけたのはもうちょっと古いモデルだろうけれど、レンジファインダーの構造はおなじだろう。三脚が付属しているとのことだから、水平の目標を測る機関銃部隊用のものかな、などと妄想してみる。

 

 それはさておき、ハヤカワ文庫NV 1984年版(もう新本の扱いはない模様)の『カタロニア賛歌』には、1943年に発表された「スペイン戦争を回顧して」が併載されている。こちらは、1942年に書かれたエッセイで、スペイン内戦がファシスト側の勝利に終わったこととナチスドイツ(に代表されるファシズム)への批判を厳しく、かつ詩的な文章で書いている。

 本に挟まっていたレシートを見ると2002年11月に購入しているのだけれども、読みなおしてみると、当時は文字を追っていただけでぜんぜん中身を読んでいなかったようだ。

 例えば、1930年代後半ナチスに対してイギリスが宥和政策をとったことについて、知識としては知っているつもりだったが、その背景についてはたいして考えたことがなかった。

 

---前大戦の組織だった嘘の代償の一部として支払われたのは、戦後に生じた過大な親独感情であった。一九一八-三三年の期間中に、ドイツにも戦争責任の一斑があると発言しようものなら、左翼陣営から野次りたおされたにちがいない。その間、私はヴェルサイユ条約非難の声をさんざん聞かされたが「もしドイツが勝ってたら、どうなっていたろうか」といったような反問はついぞ耳にしたことがなかったように思う、論議することはむろん、あえて口にすることも。---(296ページ)

 

 また、ナチスの強制労働についても言及していて、

 

 たとえば奴隷制度の復活を考えてみよう。二十年前、ヨーロッパに奴隷制度がもどってくると想像しえた者がいただろうか。そう、奴隷制度はわれわれの目と鼻の先で復活したのである。ヨーロッパや北アフリカの至るところで強制労働収容所が建てられ、ポーランド人、ロシア人、ユダヤ人、そしてあらゆる人種の政治犯がわずかな配給食を得るために道路建設干拓事業で汗水をたらしている。それは奴隷制度としかいいようがない。(中略)全体主義的な支配がつづく限り、こうした事態が変わると考えられる理由はどこにもない。---(308ページ)

 

このへんは佐藤亜紀の『スウィングしなけりゃ意味がない』 にも詳しい。

 ともかく、スペイン内戦(スペイン戦争)はイギリス・ドイツ・イタリア・ソ連各国の思惑に振り回された奇妙な戦争だったようだ。

 

---しかしとにかく、スペイン市民戦争は、ナチスが自分のやっていることをよく承知していたのに対し、反対側はわかっていなかったことを証明したのである。戦争は技術的に低いレベルで闘われ、その主たる戦略は単純なものであった。装備のいいほうが勝つに決まっていた戦争である。ナチスとイタリアはスペイン・ファシストの盟友に武器を提供したが、西ヨーロッパ民主主義諸国とソビエトは盟友である人々に武器を供給しなかった。かくてスペイン共和国は滅亡したのだった、「いかなる共和国も逃れえなかったものを甘受して」。(314ページ)