酔頭禿筆日記 sioux_pu’s diary

現像ソフトも編集ソフトもない撮ってだしです。というのもどうかな、と最近思っています。

用水路のアフリカ(再)

先般ちょっと書いた荒子川のナイルティラピア、中途半端だったので荒子川のことを少し調べてみた。
荒子川の「荒子」という地名、もとは「荒処」荒れ地をあらわし、荒れ地を開拓して新田開発が進められてきた土地だということを示している。近隣の同様の地名に「八田」(もとは治田)などがある。荒子川は庄内用水とつながる名古屋市西南部の灌漑用水の流れる川だったと思われる。
それが、昭和30年代から40年代の高度成長期、工場廃水や家庭一般廃水によりかなり汚染された川になったということだ。いわゆる「ドブ川」(今じゃ死語かな)状態となり、在来の魚類などは絶滅に近い状態になったのだろうと想像できる。さらに、地盤沈下により河口部の海抜が下がり排水が困難になったため、昭和47年(1978年)河口は閉じられ、川の水をポンプで排出する荒子川ポンプ所が作られた。これにより、荒子川は閉鎖的な水系になった。(実際のところ、荒子川河口付近は「ボラランド」みたいな感じだし、スズキやクロダイもいる。夏にはタチウオの群れが入り込んでくることもある、それらのベイトとなる小魚も多い。汽水域の生物が遡上できる状態ならおもしろい場所になったかも。)
その後、下水道の整備とともに(庄内川以東の中川区、港区の下水道整備期間は、おもに昭和51〜60年)流入する水質は改善したが、河口部の水流は停滞しているため、富栄養化による植物プランクトンの発生から淡水赤潮が発生することもあった。この対策として、上流部に処理不要の工場冷却排水(約6,000立方メートル/日)および打出下水処理場から急速上昇濾過による処理水(約4,000〜10,000立方メートル/日)が導入されることとなった。(ようやく工場排水にたどりついた。)
釣り好きの方はご存じとのとおり、ナイルティラピアが日本に入ったのは、1962年アラブ連邦(現アラブ首長国連邦)から移入されたのが始めとされている。食用魚として、温泉排水などを利用して一時期盛んに養殖されたようだ。それが逃げ出したり人為的に放流されたりし、河川や湖沼に広がったという。名古屋周辺だと荒子川のほか、長島温泉や日光川の尾張温泉あたりなどでも見かけるという話を聞く。
荒子川でも、人手により放流されたのだろう、ここは川幅も狭く水深も浅いため、本来であれば冬季には低温により死滅してしまうところが、温排水で冬でもあったかだし、おまけに先行する競合種はほとんどいないしと、彼らにとってのパラダイスとなった。
「水がきれいになって、よく見たら、そこにティラピアがいたというわけだ」(『翳りゆく楽園』のパクリです)。
そんなことを調べているうちに、荒子川の源流をたどってみたくなったので、先週半日ほどかけてうろついてきました。



最上流部:正面の暗渠は北進して庄内用水(稲葉地井筋)につながる。工場温排水は左手から流れてくる



三菱重工東側の歩道。この下を用水路が流れている。(奥の路上のマンホールは市の下水道。)灌漑期に庄内用水稲葉地井筋から水を引く用水路で、三菱重工の北辺にそって庄内用水とつながっている



荒子川から北に向かうと遊歩道。この下が用水路



住宅地の中に小さな水田が残っていたりする



五反城カトリック教会。パイプオルガンが有名らしい



県営向島団地。2棟を合わせてスター型にしている変わった構造。駐車スペースの下を用水路が流れているものと思われる
ここから先がよくわからなかったのだが、稲葉地住宅の北辺を西に向かい、同朋学園の東手前から北上して稲葉地公園の下をくぐり庄内用水に至るのではないか。

稲葉地公園の南側、用水跡?





稲葉地公園アクテノン



庄内用水(稲葉地井筋)の本流にたどりついた
ちょっと歩きすぎました。ここからまた歩いて帰んなきゃですから。まぁ、住んでいる地元でも、歩いてみると「土地に歴史あり」ということでいろいろ発見もあるかなと。とにかく中川区辺は用水が縦横に走っていたようで、こんなふうに橋塔だけ残っているところもあります。



今回は写真がおかしいです。なんでこうなった?