Uran-27 2.5/100 & α7で近所を散歩
見た目に惚れてヤフオクでウクライナのセラーから購入した旧ソ連、航空カメラ用のレンズ「Uran-27 100mm f2.5」。4群6枚のダブルガウスの3群目の前に凹メニスカスを加えた5群7枚の構成らしい。同様の構成は旧ソ連の35mmシネレンズになどあるようだ。
M42ヘリコイドを組み合わせて普通に使えるように改造したものだが、最短撮影距離はあまり寄れない1.6Mくらい。M42-LeicaM+LeicaM-ヘリコイド付きSonyEでご近所を歩いてきました。
72㎜径のフードなんてのは持っていないので、ステップダウンリングを重ねてフード代わりに。とにかく重い。
逆光には弱いようで、ふしぎなゴーストフレアが出る。拡大すると細かい放射状のゴーストフレア。
玉ボケはきれいに。
佐藤亜紀『黄金列車』の「暗い日曜日」(ネタバレあります)
https://www.youtube.com/watch?v=Z2PI7fSZeSE
【まもなく19:30から無料ライブ中継】
— ALL REVIEWS (@allreviewsjp) 2020年2月19日
月刊ALL REVIEWS フィクション部門第14回
阿部賢一@kenichi_abe_
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豊崎由美@toyozakishatyou
読み解く本→
佐藤亜紀『黄金列車』(KADOKAWA)
閲覧はこちらからhttps://t.co/uLrqQ5eKCz
※生放送に限り無料!お見逃しなく!
おもしろかったですね、佐藤先生が降臨するというサプライズ。佐藤先生がカトリックを信仰しているというのは知りませんでした。。カトリック、むかしは「旧教」といったものですが。プロテスタントは「新教」イスラムは「回教」、ムハンマドと呼ばず「マホメット」と表記されていたころもありました。聖書精読はしておくべきだろうか
それはさておき、表題についてのはなしは出そうで出なかった。ぼくが『黄金列車』を読んでいちばんやられたなと感じたのは、「暗い日曜日」のあつかいです。
戦間期のハンガリーを起点とする小説で、自殺が重要なモチーフのひとつである『黄金列車』という作品であれば、「暗い日曜日」を避けて通るのはあまりに不自然なわけですけれど、本作ではそれをほのめかしながら巧妙に避けて進行していく。
薔薇のことを、バログは考える。三十本くらいはあっただろうか。灯りのない食堂のテーブルの上、いつものように二人分の食器を差し向いに置いた脇に白い薔薇が生けられて、締め切った窓から漏れる夏の夕の薄明りに浮かんでいる。台所のコンロの上ではスープの鍋が冷えている。 22ページ
(本稿とは関係がないのですが、一昨日キムチ鍋をガスコンロにかけたまま眠ってしまい鍋の中身が炭化して弊マンションの室内は極めて炭くさい状態になっています。)
佐藤先生は作品の出だしでにおいて、自殺=「暗い日曜日」をほのめかすのですが、この後おくびにも出しません。
「暗い日曜日」が実際に提示されるのは、本作品の最終盤であり、しかも「1945年4月25日」に「指揮系統から外れてしまった武装親衛隊」の「バルカン半島(少数民族が多く住むヴォイヴォディナ)出身」の「士官(ぜんぜん士官らしくないけれど、人材不足だったのだろう)」が「耳コピのハンガリー語で」「酔っぱらって歌う」(しかも曲名は明示しない)というひねりにひねりにひねりにひねった(やかましい)場面です。こんなキレキレのプロットに読者はどう対抗すればよいのだろうか。
ROLLEICORDⅤと期限切れのフジNS120 PRO160
油断をしていると買いだめをしていたフィルムの使用期限が過ぎるのですね。
赤がすごい。
どうでしょうか
裸眼で見るよりもよく見えるという1枚です。
現地で見た人でなければわからないおどろくべき質感。
Miranda Soligor 5cm 1:1.9(実はコーワプロミナーらしい) & a7
ぼくは静岡県の浜松市で生まれて17歳まで過ごしたあと、京都市山科区小山谷田町で1年過ごして大学に入学してからは川崎市多摩区登戸で4年、そのあと就職して世田谷区の豪徳寺界隈にちょっと住んだあと板橋区志村3丁目に1年くらい住んで、意を決して岐阜県関市に移って10年住んだわけです。
いろいろあって岐阜県関市のあと名古屋に来て22年になるわけで、名古屋に住んでいる期間がもっとも長いのです。
そうであれば名古屋の企業であるコーワが作ったプロミナーについて言及せざるをえない。
しかし、コーワのレンズはなかなか見つからないんですが、ミランダのレンズのうち、シリアルにKが入っているレンズはコーワ製らしいです。
手とつめががしわしわです。
佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』を文庫版で再読 その2
強制労働に従事させられたエディは、容赦なく廃棄される収容者を見て、「お前」という概念を得る。
お前、は別に女の事じゃない。アディのことでも高い口紅の子のことでもない。マックスの婆さんを死なせベーレンス兄弟をUボートさせたもの。アディをラーフェンスブリュック送りにし、僕をここにぶち込んだもの。あの溝を死んでいく人間に掘らせているもの。お前のことだけを考える。出ても入っても、娑婆でもムショでも、アルスター・パヴィヨンのテラスで踊っていてもベルゲドルフにぶち込まれていても、ぼくにはわかる、ぼくがいるのは牢獄だ。月の下でも太陽の下でも、兵隊になるなんてあり得ない。模範囚になって個室に蓄音機を持ち込んでも、雑居房で雑魚寝してても、囚人を順に殺していく狂った牢獄を祖国とか呼んで身を捧げる奴なんかいるか?お前、お前、お前から逃れるまで、ぼくはお前のことを考える。夜も昼も。 (文庫版229ページ)
この部分を読むと、「エディは敵をきちんと捕捉したんだ、エディがこれからナチス政権と正面切って戦うというマニフェストだ」って思わせる(ぼくは思った)のだけれど、これはじつは作者の仕組んだ読者に対する罠じゃないのかね? 罠といって大げさすぎるなら、けっこう意地の悪いひっかけ問題なんじゃない、と、ぼかぁ思うんだよね。
それはさておき、エディは断固として志願しなかったのだが、
「強制労働に耐えきれず武装SSに志願してしまい、素行不良がもとでアインザッツグルッペンに配属されてしまった少年」
の小説があったら、どんなものになるだろう。アインザッツグルッペン部隊員の内面を描こうとしたら書き手が病んでしまうかもしれない。
そもそも、強制収容所を作ったのには、現地で銃殺させているとおかしくなってしまう隊員が出るので、トラックの荷台でのガス殺にしたんだけどやっぱりおかしくなちゃうから、収容所に送って働けないものは処分、働けるものはこき使って死なせる、という流れもあったという覚えがあるから、尋常ではないうえにことに尋常ではないことをしていたのだろう。
強制労働で足を痛め、従軍不適格となって鑑別所から帰還したエディ。
この先「スウィングボーイズたちのナチス政権への反抗が始まるんだよね」などと思いつつ読みすすめていったのだが、予測は微妙にずらされていく。
帰って来たばかりのエディは、父親の工場で働くノイエンガンメから派遣された収容者を見る。
---(前略)ぼやっと突っ立ていた警備兵が、目の前をおぼつかない足取りで通った収容者に難癖を付けて殴り始める。また何かがぼくを捕まえかけるが、どうにか押しやる。ほら、収容者が全員、手を止めただろ。こっちは人数と時間に金払ってんだよ、いらんことすんな、屑。 (文庫版233ページ )
「金払ってんだよ」とエディは考えるのだが、これは逆説的に考えると「金払わなくても良い」のなら収容者の扱いに「関与する筋合いではない」から好きに扱っても構わない、ということになるのではないか。
金を払っていなければ、無償で派遣されている労働力だったら、親衛隊の警備兵が気まぐれに、働いている収容者の一人を殴ってもいいし、それを見たほかの派遣されている収容者が手を止めてもいいのか?
父の工場に勤めだしたエディは、工場に派遣されてくる収容者の待遇を改善するためにいろいろと手を回す。単行本で読んだ際には、それは「人道的な配慮」によるものでエディっていいやつだな、と読んでしまったのだが(単純)、どうもこれに人道は全く関係なくて(すこしはあるかもしれない)経済的な理由による行動だ。「人道的な動機による行動」なんて人間はそうそうしないもんだよ、という作者の声が聞こえるようだ。佐藤先生にまたしても騙された感ある。
中盤のクライマックスであるハンブルク大空襲を契機として、エディの現実への対応の変化が徐々に巧妙に提示されていく。
(たぶんその3につづく)