その昔、NHKの報道番組でとても印象の強い番組があった。
1970年か1972年ごろか、広い空き地に集められた織機を、作業員の人が鉄のハンマーでばっこんばっこん叩き壊していた。夕日を背景にしてハンマーを振り上げる、とても抒情的な絵面だった。
その番組を選んで観ていたのは、もちろんぼくではなく父。
当時の我が家は貧乏とまではいかないものの、わりと倹約した生活をおくっていたようだ。初めて乗った自転車は、父の知り合いのお子さんが大きくなって乗らなくなったものを譲ってもらったものだったし、ソフトボールで使っていたバットは、軟式野球で芯をはずして打ってしまいひびがはいったもので、そのひびがバットの先だったので、短く切って小学生なら使えるようにしたのだった。
そんなことで我が家には「使わないならもらってきてうちで使えないか試してみる」というマインドがあったからか 「織物の機械だって、こわしちゃうのならもらってくれば何か使いようがあるんじゃないかなーもったいないなー」と思ったのだった。
日米繊維交渉で日本からアメリカへの毛織物・合繊の輸出削減にあたって、織物業者への補償策は
「補償金で織機を買い上げる」
だったとのこと。そうして買い上げた織機を廃棄する場面だったのである。 この政策は、なにがなんでも産業を継続できないようにしてしまう「産業浄化」ですよね。
資料的な意味での織機もほとんど残らなかったようで、20年ほど前に、一宮市で「かつての織機が発見された」ということがニュースになったりした記憶がある。
ぼくがテレビで見たのは、その保証金で買い上げられた織機をこわしている場面だったらしい。
一宮市の西部、かつての尾西市あたりには役目を終えた当時の「のこぎり屋根」の織物工場あとの建物が、なぜか多数残っているようなので見に行ってきました。
細い道が多いようなのでレンズは広角の28mmOrion15、寄りたいときは解像力の高いレンズでトリミングすればよいかなと思ってPO3-3M。奇しくもソ連製2本。
名鉄尾西線の終点、玉ノ井で下車、すぐにこんな建物が。
PO3-3Mは絞るとちょっとイメージサークルが足りない。
名古屋市中川区であれば、普通の農家に見える風な敷地でもこんな感じ。
上の工場は当日も稼働していました。「当時廃業せずに細々と事業を継続していた業者さんは、今では希少価値のある仕事ができるため案外利益を上げているらしいよ」というはなしを、津島市に住んでいる知り合いに聞いたことがあります。
その知り合いは、「尾西の織物が地下水をガンガン汲み上げたせいで、津島は地盤沈下して海抜ゼロメートルになっちゃったんだよ」と怒っていました。
木曽川にかかる尾濃大橋。
若宮神明社。こういうところは、つい撮ってしまいますね。
この敷地内に...
左の赤いペンキで塗られた建物は、当時の従業員たちの寮ではないか。中上健二の『日輪の輪』で、熊野から一宮の繊維産業に就職した女性たちがいなかったっけ?
のこぎり屋根の工場、尾西地区にはなぜこんなに多く当時のまま残っているのだろう?地理的に名古屋圏への通勤圏内にあり、無理に新たな事業を起こさなくても生活はできる、使い途もないのにお金をかけてまで建物を潰さなくても、ということなのかな。
今回は、JR関西線で弥富まで行き、そこから名鉄尾西線で弥富→津島→一宮→玉ノ井と乗り継いだのですが、景色の変化に、旅行が好きな人の気持ちがすこしわかったような気がしました。
弥富あたりの区画整理のされていない田んぼ、稲沢市の線路の両側に果てしなく続く銀杏が気になったので、次回の課題としたいですね。