酔頭禿筆日記 sioux_pu’s diary

現像ソフトも編集ソフトもない撮ってだしです。というのもどうかな、と最近思っています。

佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』『黄金列車』内のある語に附されたルビについて その2

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 このエントリを読み直してみたが、自分で書いておいてこんなことをいうのも何なんだが、どうも腑に落ちない。どこが引っかかるのか考えてみると、先にあげた「ぼっしゅ」とルビのある部分と、最後のルビのない引用部分では場面の状況が異なるのである。

 「ぼっしゅ」のルビはすべて、気心の知れた同士の会話だったりバログの心の中での独白だったりといった、私的な場面で使われている。が、後から引用したヴィルヘルムスブルク駅の駅長とアヴァルとの会話は、列車を運用する委員会の現在の責任者であるアヴァルからの、列車の運行を早めることの申し入れの場であり、ハンガリー政府に属するユダヤ資産管理委員会の公式の発言であるといえる。したがって、この場面では「没収」を「ぼっしゅ」と読んではいけないのではないだろうか。

 そこで、ルビのふられていない箇所を調べてみた。すると、ルビのふられた場面に引き続いて使用されたものを除くと、ほぼ全てが公的な会話の場面で使用されている。(1か所だけバログの独白内で「ぼっしゅ」と読んでいるであろうのに抜けているところがあった。「…最後尾にオープンタイプのスポーツカーがあるのが場違いだ。泥跳ねが青い車体にまで散っている。ハンガリーのナンバープレートが見て取れる。没収品だろう。…(206ページ)」ルビのふり漏れであるのか、あえてふっていないのかは不明。)

 とくにトルディ大佐の発言内においては、すべてルビなしである。トルディ大佐としては、委員会の管理する財物は、すべて法に則った正式な手続きによってユダヤハンガリー人から「没収」した、という考えに立っていることを示しているといえそうだ。

 この語が、非常に微妙に使われている場面が、1944年12月16日、アヴァルとミンゴヴィッツの間で交わされた会話だ。

 

  アヴァルは、しくじったな、というような顔をする。「我々は非常に拙い立場に立たされたのではありませんか」

「何がどう拙い」

「青臭いと笑っていただいても構わないのですが、あの没収品を見ると  何と言ったらいいですかね」かぶりを振る。「道義的に、と言いますか。申し訳ありません、それ以上はどうにも」  (44ページ)

 

 顔合わせの初日、互いに相手がユダヤの資産をどのようなものだと認識しているのかが分からないなか、アヴァルは「ぼっしゅう」と言わざるを得ない。トルディ大佐のように、ハンガリー政府の正当な資産と考えているのか、あるいは不当な手段で略奪された ユダヤ系市民の財産だと認識しているのか。

 「没収」という語に二通りの意味を持たせ、さらに自分たちの手元にある財物がハンガリー政府の正当な資産である、という立場に立つトルディ大佐が、躊躇なくそれを不正に流用しようとするのに対し、不当な略奪品、という認識を持つアヴァル、ミンゴヴィッツ、バログたちは、国有財産として「規則を守って正しく管理」しようとする(勿論後々の申し開きのためでもあるが)。この二重にねじれた状況を作り上げた『黄金列車』の作者には、今回もまた気が許せないところである。

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