酔頭禿筆日記 sioux_pu’s diary

現像ソフトも編集ソフトもない撮ってだしです。というのもどうかな、と最近思っています。

メルヴィル『白鯨』その3 翻訳の「速さ」

 

 一気に寒くなりました。洗濯物はなかなか乾かないし、ぼーっとして外に干したままでおくと、一度乾いたのにまた湿ってしまったりします。そんななか、『白鯨』についての寒いお話、3回目です。

 ご存知のように、『白鯨』の日本語訳は八木訳岩波文庫版の訳者解説によると、現在11種を数えるということだ。全135章と長大なうえ、聖書やシェイクスピア英米古典文学に関する知識は欠かせないし、物語だけでなく「鯨学」や航海中の捕鯨船内の作業・生活についてなど、多岐にわたる内容にもかかわらず翻訳が多数なされたのは、当然原書の文そのものに魅力があるからなのではないだろうか。

 ぼくには原書を読む能力はないのだけれど、それでも訳からさかのぼって拾い読みしただけでも感じる箇所はあった。そんな中の1か所を各翻訳と比較してみたい。

 

 前回と同じく

CHAPTER 135. The Chase.—Third Day.

の最終盤の場面。(実際、『白鯨』を最初から全巻読み通すのは苦行に近しいものがあるので、下巻の132・133・134・135章とエピローグを読むだけでも十分おもしろいと思う。そこを読んだら、最初から読んでみる気になるんじゃないか。)

 ピークォド号の舳先はモービィ・ディックに砕かれまさに沈まんとするなか、エイハブは最後の銛を放った。

 The harpoon was darted; the stricken whale flew forward; with igniting velocity the line ran through the grooves;—ran foul. Ahab stooped to clear it; he did clear it; but the flying turn caught him round the neck, and voicelessly as Turkish mutes bowstring their victim, he was shot out of the boat, ere the crew knew he was gone. --

 

 引用部前半の下線を引いた部分を音読してみてほしい

The-d; the-d; と破裂音の強い文が2文続き、with igniting --- the grooves; で一気に盛り上がりかけたところに2倍ダーシがはさまれて run foul. とn と l 音の単語2語でピリオド。ひと呼吸おいて「Ahab」 と2重母音から再開して 「stooped to clear it;」そのあとの「he did clear it; 」を 一単語一単語くっきりと力を入れて読むとまさに「エイハブ」が「成した」感が出るのではないか。

 ごく短い文のなかに緩急(急・緩・急)が凝縮されてつまっている。

 そして、盛り上がりきったところにつづく急転直下のそのおそろしさたるやいかに。

 

 135章かけて引っ張ってきて、たった2文でメルヴィルはエイハブを葬ってしまった。

 

(引用した原文は前回同様グーテンベルクプロジェクトより、翻訳も ①:旧岩波文庫阿部訳 ②:新潮文庫田中訳(1977年版) ③:角川文庫富田訳 ④:講談社文芸文庫千石訳 ⑤現岩波文庫八木訳 の順)

 

 銛は投射され、刺された鯨は疾飛し、索は火がついたように溝を走り—縺れてしまった。エイハブは屈んで、それを直そうとした。みごとに直した。だが、飛ぶ索の輪が彼の首に巻きつき、彼は、トルコの唖が犠牲者を絞首するときのように音もなく、乗組たちが彼がいなくなったことに気づくよりも早く、短艇から吹き飛ばされた。--

 

 

 銛は飛んだ。撃たれた鯨はまっしぐらに奔躍した。灼熱(しゃくねつ)の速さで索は溝を走った—走りつつ縺(もつ)れた。エイハブは屈(かが)んでそれをほぐそうとした。たしかにほぐした。が、飛び立った索の一巻きが彼の頸に巻きつき、死刑囚を絞(くび)るトルコ人の唖(おし)の刑吏のように、声もなく、彼をボートから引っ攫(さら)って行った。乗組の者は彼がいなくなったことさえ気づかなかった。--

 

 

 銛が投げられた。刺された鯨は前方に突進した。火がでそうな速さで索は溝を走った—走りながらもつれた。エイハブがほぐそうとして屈(かが)んだ。そしてほぐすにはほぐした。が、飛んだ一捲(ま)きの索が彼の首にまきついて、トルコの唖の召使に弓弦で絞殺される犠牲者のように、彼は声もなくボートからさらって行かれ、乗組のものは彼のいなくなったことに気がつかなかった。--

 

 

 このようにして銛は投擲された。そして銛を受けた鯨は、飛びすさるように疾駆を始めた。銛索が火を噴くように導索溝を走り抜けて行く。しかし、索が縺(もつ)れる。エイハブは縺れをほぐそうと身を屈める。そして見事、ほぐし終えた。その刹那であった、索桶から輪を描きながら走り出る索が、首に絡みついたのだ。そしてエイハブを無音のうちに艇外へ拉し去ったのであった。深い沈黙のうちに絞首刑を執行するトルコの唖の刑吏のようだと形容すればいいか、漕ぎ手らはエイハブの姿が見えなくなったことにすら気づかない。--

 

 

 銛が投じられ、銛を打たれた鯨は急発進し、綱は摩擦で発火せんばかりの勢いで綱受けの溝を疾走し—溝をはずれた綱はもつれた。エイハブは身をかがめてもつれをなおそうとし、事実みごとにもつれはなおしたが、桶から飛ぶように繰り出す綱がその首に巻きつき、トルコの唖者の絞首刑執行人が犠牲者の首をしめるときのように声もなくボートから姿をけしたので、乗組みはだれもエイハブがいなくなったことにしばらく気づかなかった。--

(※各引用のカッコ内はルビ)

 

 各訳のうち、②の田中訳が原文の感覚が最も活きているのではないか。「-はーだ。-は-た。-は-た。---た。エイハブは--た。しかにほぐし。」と破裂音でまとめているところ、「急・急・急・急・—緩—・急」とスピード感にあふれているが、緩部分がしっかりあるところ。さらに「flew forward =奔躍」「igniting velocity =灼熱の速さ」といった語からもイメージが感じ取れる。

 ①②③の古い訳はいずれも原文の雰囲気を掴みやすいと思う。一方④⑤の新しい訳では、後半に出てくるメルヴィルの好んで使う「オスマントルコネタ」について説明的になってしまって、それに引っ張られたのか、前半も緩急や読みのリズムよりも情景の理解を重視した訳になってしまっているのではないだろうか。

 後出で訳する場合は、もちろん研究が深まっており有利な要素は多いと思うが、先に出た翻訳で使われた単語は使いづらいなどの難しい点もあるのだろう。

 

 果たして全4回の最後のもう1回は書けるでしょうか?次回のネタは「give up」です。