酔頭禿筆日記 sioux_pu’s diary

現像ソフトも編集ソフトもない撮ってだしです。というのもどうかな、と最近思っています。

メルヴィル『白鯨』その4 この「give up」は、どの「give up」か

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 的外れメルヴィル『白鯨』しつこく4回めです。

 その3では、エイハブが自らはなった銛索に絡めとられ、海中に引きずり込まれる場面を見たわけですが、直前に、エイハブは遺言ともいえるような台詞を語って(叫んで)います。その台詞のなかに、翻訳によってかなり異なる訳し方をしている部分があります。

 その3に引き続き「CHAPTER 135 The Chace.—Third Day.」の終盤です。

 エイハブは、ピークォド号がモービィ・ディックによって船首を破壊され沈没は免れない、ということを見ており、船長として自らの船の状態を認めつつ「もはや自分にとって船がどうなろうとかまいはしないのだ」と思い込もうとしています。また、帰船する母船を失おうとする今、この銛こそ最後の一投であることを悟っています。

 今回比較する部分は、エイハブの台詞のなかでも最も重要な部分ではないかと思われます。原文と比較して、エイハブが何を言っていたのか考えてみます。

 各訳文を次に挙げます。前回同様、①:旧岩波文庫阿部訳 ②:新潮文庫田中訳(1977年版) ③:角川文庫富田訳 ④:講談社文芸文庫千石訳 ⑤現行岩波文庫八木訳 です。

---あらゆる棺桶も棺台も一つの大きな水溜りに沈めるがよい。だが、わしはそんなものに用はない。呪われた鯨め、わしは貴様に縛りつけられたまま、貴様を追跡し、そしてこなごなに打ち砕けるのだ。さあ、この槍をくらえ! (下巻 P 272)

 

---柩も棺も一つ残らず同じ池に沈むがよいわ!どの柩も棺もおれのものではないゆえに、たとえおのれに縛りつけられようとまま、おのれ不祥の鯨めが!なお汝(おのれ)を遂うあいだは、身は砕けても索は離すまじいぞ。まっこのとおり、おれの槍をくれてやるわ! (下巻 P 454-455)

 

---棺桶(かんおけ)も棺車も一つ残らず、同じ一つの池へ沈んでしまえ!そしてわしは棺桶も棺車もいらぬのだから、貴様にしばりつけられていてもかまわぬ、どこまでも貴様を追いかけながら、貴様を曳(ひ)いたまま粉々に砕けるまでじゃ、この呪われたる鯨め!そら、こうしてわしは槍を捨てるぞ! (下巻 P 535)

 

---棺だろうが棺置台だろうが、そんなものは、そこらで、そこらのうす汚れた水溜りで、勝手に沈んで行くがよかろう!そんなものは、もうおれには無縁となった。鯨よ、貴様にこの身が縛りつけられることになろうとも、なおも追撃するおれだ。この肉がずたずたに引き裂かれるにいたるまで、貴様と索一本で繋がりつづけているおれだ。だから、だからこそいま、さあ、この、銛をくらうがよい! (下巻 P 646)

 

---棺桶も柩車も、みんな海なる共同墓地に沈めてしまえ!わしはそのどちらにも用はない。だから、なんじ呪わしき鯨よ、わしは汝にひきずられ、ずたずたになりながらも、汝を追いつめてみせるぞ。かくなれば、もう槍はいらぬ! (下巻 P 403-404)

※①と⑤の下線部分は、傍点あり

 

 この直後に訪れる自らの最期を予見したような台詞ですが、それはさておき、比較する部分を挙げます。

①「さあ、この槍をくらえ!」

②「まっこのとおり、おれの槍をくれてやるわ!」

③「そら、こうしてわしは槍を捨てるぞ!」

④「だから、だからこそいま、さあ、この、銛をくらうがよい!」

⑤「かくなれば、もう槍はいらぬ!」

意味合いとして区分けすると、①②④はほぼ同内容と言ってよく、③と⑤はことば使いはちかいですが、微妙なニュアンスが違う気がします。

 長かった物語のクライマックスとして、①②③が相応しい訳に思えるのですが、原文を見てみると「気付いたこと」があるので、以下に引用します(原文はプロジェクト・グーテンベルクより)。

 

---Sink all coffins and all hearses to one common pool! and since neither can be mine, let me then tow to pieces, while still chasing thee, though tied to thee, thou damned whale! Thus, I give up the spear!   ※「Thus」は斜体

 

 案外短い文です。試しに逐語的に訳してみると

「すべての棺と霊柩車はただの水溜りに沈めよ、それらはもはや私のものではない、たとえ汝に縛りつけられようと、なお汝を追う限り、ばらばらになるまで私に引かせよ、汝忌まわしき鯨!であればこそ、私は槍を捨てよう!」

めっちゃ恥ずかしいだれかなおしてください、のはさておき、原文をそのままでは意味がとりにくい部分で、いずれの翻訳とも独自に解釈して訳しています。翻訳というものが訳者による「再創作」であることがよくわかる個所でもあります。

 さきほど書いた「気付いたこと」、というのは、エイハブは「spear」を「give up」する、といっていることです。前回のその3で引用しましたが、ここでエイハブが投じようとしているのは「harpoon(銛)」であって、「spear(槍)」ではないのです。そして、日本語訳の『白鯨』のなかには、捕鯨のための得物・武器として何度も「槍」という語が出てきますが、原文においてはそれは多く場合「lance」と書かれ、「spear」はあまり使われていません。

 さらにいうと、「harpoon」と「lance」とは、はっきり使用目的が異なっています。

 鯨を捕捉するために投ずるのが「harpoon」で、これには鯨に刺さったあとに抜けてしまわないよう「かえし」がついています、これを投げるのは「harpooneer(銛打ち)」とよばれるクィークェグ・タシュテゴ・ダグーの3人(とエイハブ)です。

 一方の「lance」は、銛でもって捕捉した鯨を「仕留める、とどめを刺す」ためのもので、何度も刺しては抜きさらに急所をめがけて刺して鯨と戦う道具であり「かえし」はありません。スターバック・スタッブ・フラスクの3人の航海士(とエイハブ)がこれを使っています。

(本記事の写真を参照。ペンギンブックス付録の挿絵)

 なぜ、エイハブは今現在手に持っていない「spear」「give up」する、と言ったのでしょうか。

 「spear」とは何でしょうか。原文では18か所ほど出てきます。(以下、カギカッコ内の訳は八木訳より引用)

 まず、たとえば 「CHAPTER 3. The Spouter-Inn.」 の「monstrous clubs and spears」「奇っ怪な棍棒や槍」、 「CHAPTER 102. A Bower in the Arsacides.」 では「inlaid spears」「象嵌された槍」のように、捕鯨用にかぎらぬ一般的な槍をいう場合に使われているようです。

 一方で「CHAPTER 27. Knights and Squires.」ではスターバック・スタッブ・フラスクを紹介する場面において「long keen whaling spears」「長く鋭い捕鯨用の槍」という使い方をしています。

 それから「CHAPTER 84. Pitchpoling.」では、銛を打ち込んだものの、泳ぐ速度を緩めずボートが近寄れず止めを刺しにかかれない鯨をしとめるため、鯨に向けて槍を遠投するスタッブの技術が語られます。この章では捕鯨用の槍の表記として「lance」表現が多いですが、「spear」も使われています。特に注意を引かれたのは、スタッブが槍を遠投し、引き綱で手元に戻しさらにまた遠投を繰り返す様を

「 Again and again to such gamesome talk, the dexterous dart is repeated, the spear returning to its master like a greyhound held in skilful leash.The agonized whale goes into his flurry; the tow-line is slackened, and the pitchpoler dropping astern, folds his hands, and mutely watches the monster die.」

「 こういう軽口をたたきながらも、スタッブはつぎからつぎへと槍の遠投げをくりかえし、それがまた、たくみに紐(ひも)で調教されたグレイハウンド犬のように主人の手もとに忠実にもどってくる。鯨は断末魔のあがきをはじめる。曳き綱がゆるむ。槍投げの主(ぬし)は舟尾に移動し、腕組みをしながら、無言で死にゆく鯨を見守る。」

と、鯨を死に至らしめる場面に「spear」が使用されていることです。

 また、動詞「spear」を動名詞として使用している記述部分が1か所あります。 「CHAPTER 116. The Dying Whale.」のなかで、「all the spearings of the crimson fight were done:」「紅そむる槍合戦も終わり」と、鯨に止めを刺し仕留めることを「spearing」と動名詞で表現しています。

 以上から、「作中で、実際に鯨に止めを刺す・殺す得物」の槍を指す場合に「lance」をあえて「spear」と表記することがあるのではないか、と思われます。

 

 エイハブは3日目の追跡でピークォド号を離れる際、船にモービィ・ディックを屠ることを約しています。

「Good-bye, mast-head—keep a good eye upon the whale, the while I’m gone. We’ll talk to-morrow, nay, to-night, when the white whale lies down there, tied by head and tail.」

「さらば、檣頭の者よーわしが本船を留守にするあいだも、白い鯨から目を離すでないぞ。あした、いや今晩でもいいが、語りあおうではないか—白鯨を頭と尻尾(しっぽ)で船に縛りつけ、横づけにしたままでな」(下巻 P 385)

※この八木訳中、「檣頭の者よ」という呼びかけには違和感があります。(翻訳の良しあしについて考えているのではないので、蛇足になりますが)「者」というと、帆柱で見張りについている船員に呼びかけているように読めてしまいます。ここでエイハブが語りかけている相手はピークォド号であり、船は乗組みも含めもはや一体となっていることが134章で語られているからです。

「 彼らは三〇人でなく、ひとりであった。乗組み全員を収容しているとはいえ、一隻(いっせき)の船はあらゆる異質なもの—カシ材、カエデ材、松材、それに鉄、瀝青(ピッチ)、麻など—の寄せ集めであり、それらが複雑にからみあってひとつの具体的な船ができあがるのであるが、なお中央に長い竜骨が配され、均衡と方向性を付与されてはじめて、いよいよ進水という運びになる。これとまさしく同様に、乗組み各自の個性—甲の勇気、乙の怯懦(きょうだ)、丙(へい)の罪業、丁(てい)の天真爛漫(らんまん)さなど—は十把(じっぱ)ひとからげにされて、ひとつの宿命的な目標に奉仕させられるのであって、そこにおいてエイハブはすべてを差配するひとりの独裁者、ひとつの竜骨となるのである。」(下巻 P 364)

ちなみに同じ134章で、檣頭の見張りにエイハブは「Aloft their!」と声をかけています。

ピークォド号の横腹に死した白鯨の頭と尾を縛り付けること、こそがエイハブにとって復讐の成就したかたちだ、と言っているとみてよいと思います。だがしかし、冒頭で見たようにピークォド号はまさに沈もうとしている。つまりエイハブの望みは決して叶えられないものとなってしまったわけです。今やエイハブにできることは、最後の渾身の「銛」を打ち込み、その銛索を引き(に引かれ)モービィ・ディックのゆくところをどこまでも見届けることです。

 してみれば、エイハブの「I give up the spear!」とは「私にはもう汝を殺すための槍はいらぬ!」「もはや復讐を遂げることはかなわぬ!」とあきらめの意味で「give up」と言っているのでしょうか。

 しかし、この場面でエイハブの望みそのものが、モービィ・ディックを殺すことからモービィ・ディックをどこまでも追走し最期を見届けることに変化したとするならば「私にはもう槍などいらぬのだ!」という積極的否定だとも思えます。それにしても「give up」にはあまり肯定的・積極的ではない印象が感じられるのですが、どうなのでしょう。

 

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 『白鯨』のように翻訳が何種類かあって、それぞれ読み比べながらさらに原文にあたるという今回の読み方は、僕のようなシロトでもなんか読めた気分になれるので面白かったです。昔風の言いかただと、各種翻訳を横断しつつ原文との間を往復する、みたいなやつですね。

 モービィ・ディックのことを、見張りの乗組みが「she」と呼ぶのに対し、エイハブは「him」といっているのですが、だれか掘り下げて調べてくれないでしょうか。